私に起こった奇跡
朝、うつらうつらしていると、急に長男(9)が「トランプやろう! ポーカー!」と言ってきました。
すっかり寝ていて、1ミリも脳が働いていません。
「じゃぁ、3回まで交換でるからね。」
はいはい。3回ね。
そう思っても、寝ている脳では言葉は出ず、首を縦にふるだけ。
配布されたカードは、ジョーカーが2枚。こりゃ、何でもできるわ と思いながら、またうつらうつら。
「ぼくはもう3回替えたよ。パパも早く替えてよ。」
はいはい。3回ね。
とりあえず、3回替えました。なんとなく……。
「ぼく、ストレートだよ。」
ストレート?どこが……数字並んでないし……。
!!ちょっと目が覚めた。
「これは!! ―― ロイヤルストレートじゃねぇか!」
長男(9)は、自分の手札より私の驚きにちょっとご満悦で、
「うん!」
こいつ、いかさましたのか?ってできるわけないか……。
そもそもロイヤルストレートなんて知らないだろうし。
「パパのは?」
いや、見るまでもないでしょう。頑張ってもロイヤルストレートには勝てないからね。
目覚めた脳はまじまじと自分の手札をみました。
【 ♦10 ジョーカー ジョーカー ♦K ♦A 】
フラッシュか?スリーカード……あれ?
……これは!!
人生初のロイヤルストレートフラッシュ??
はい。
脳はフル回転、急発進急ブレーキです。
長男はそっちのけで、外で洗濯を干しているママに報告です。
「おい! ロイヤルストレートフラッシュ!!」
まったくもって説明が不足しています。
家族ならではの駄目会話ですね。
と、奇跡は起きたわけです。
あなたは竜族の末裔です。
今どきの中学生は、なぜか根拠のない自信を持っているんです。
学習も部活も「まぁ何とかなるや」って感じで。
しかも、その「何とかなる」がかなり良い結果を想像しているわけで……。
あの自信はどっからくるのだろう。
きっと、神様がいきなり現れて「君は世界を救う使命を帯びているんだ」とか「あなたは竜族の末裔なのです」とか言われれると思っているのだろうか。
いや、きっとそうに違いない。
そうでなければあの意味のない自信が説明できない。
と、子どもに言ってみると、「そんなわけないじゃん」と馬鹿にされるしまつ。
いや、思ってますよね。絶対。
その証拠に、悪い結末に直面すると、ほとんど全員がこの世の終わりみたいな落ち込み方をするでしょう?
例えば学校の定期テストだって、すごく頑張って勉強したわけでもないのに、結果が返ってくると落ち込んでるよね。
何かの対策をほどこしてならいざ知らず、そうでないのに良い結果が得られるわけないでしょうに……。
でも、良い結果が得られると思っていますよね。
つまり因果関係を考える力がまだ未成熟であるということなのです。
だから、子どもたちは奇跡が起こってそうなることと自分で何かを願ってそれが成就することとを区別できないのです。
奇跡と懇願成就
先ほどの私のロイヤルストレートフラッシュは、奇跡だと思うわけです。
辞書では、奇跡とは「常識では考えられない不思議なできごと」と説明されています。
重要なのはこの「考えられない」ってところで、奇跡とはつまり本人が考えてもいないような、イメージさえしていないようなできごとなわけです。
だからさっきのロイヤルストレートフラッシュは、私が願いを込めて札を見たわけではないので、奇跡だということになります。
逆に「宝くじが当たる」という現象は、奇跡ではありませんよね。
確率的に低いことかもしれませんけど。
少なくとも「当たりたい、当たってほしい」と思って、宝くじを購入しているのですから。
先ほども述べた通り、子どもには奇跡と懇願成就の区別ができないのです。
だから、懇願成就すらも奇跡と同様に取り扱ってしまう。
子どもが「成績をあげたい」「部活でレギュラーになりたい」などと少しでも思っているなら、それは奇跡の話ではないのです。
だって、本人が願っているんですもの。
でも、子どもの彼らはそれが自分の願いで、その願いを持って活動することで願いが叶う方向へ自ら歩んでいるという自覚を、未熟なゆえに持てないのです。
それでも、子どもが願いを持った時点で、実はそれが懇願成就の出発点になるのです。
それがたとえ竜族の末裔であっても……です。
決して奇跡ではありません。
他力本願であろうとも、願いは行動の起点なのです。
そして、それが思いに変わり、いずれ行動として現れてくるはずです。
ならば、その願いの起点を改めて、具体的に、本人に自覚できるようにしてやるのが、もっと大切に扱ってやるのが大人の役目なのではないでしょうか。