食事の好き嫌いはその子の人生にどう影響するか

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%e7%a7%81%e3%81%ae%e5%a5%bd%e3%81%bf%e3%81%ab 習慣として定着する回数

何回、漢字の書き取り練習をしたらその漢字が書けるようになるんだろう。
今時の小学生はだいたい漢字の書き取りというのをどれぐらい1日にやるのだろうなぁ。
 
私の住む長野県では、おおよそ漢字練習帳1ページが中学生の標準の宿題となっているようです。
私が中学生のころは、もっとも私は愛知県の出身なので地域性があるかもしれないけど、漢字練習帳などを提出した記憶があまり残っていません。
 
ともあれ、漢字ですよ。
おおよそ何回練習したら、その漢字を書けるようになるんでしょうね。
普通はひとつの熟語に対して10回?
さすがに100回も同じ熟語を書く人はいないか。
根拠は全くないけども、さすがに100回も書いたら、当然書けるようになっているだろうし、それを10日も続ければ、さすがにその漢字が自然に書けるようになっているに違いありません。
 

 約44000回

唐突ですが、私は生まれて約44000回も行っています。
もちろん漢字の練習ではないですよ。
1日3回、1年間に1000回。
これを44年間……ずっと繰り返してきています。
 
もうおわかりですよね。
そう、食事です。
これはすごいことですよ。
漢字を覚えることができる回数が100回だとすると、比較にならないぐらいの回数をやっています。
そりゃあなた。
何も考えなくても適量のお米を、はしで口に運ぶことができるのは当然ですよ。
なんせ44000回ですから……
でも、私の約44000回は、私の人生にどんな影響を与えてきたのでしょう。
考えるだけで恐ろしい。
これだけの回数が実施されれば、何かが習慣化がされていくでしょうね。
習慣化された何かは、自分を作り上げるのに、少なからず……いや、きっと多大な影響を与えているに違いない。
もっと言うと、我々はむしろ食事を通して、なされる人間形成が実は多いのではないか?
もちろん自分の知らない間に……つまり無意識のうちにですが。
 

 好き嫌いはよくないことか

そこで食事、特に「好き嫌いはいけないことか」ということについて考えてみましょう。
もちろん「栄養バランスが・・・」とか「食べたくても食べられない人がいるから・・・」とかの理由は当然。
よく耳にしますし、ごもっともです。
私もそういう理由を聞いてきましたけど、いまいち心打たれなかったんですよねぇ。
まぁ、昔のことは置いておいて、私が心配するのはもっと人間形成に関わる部分なんですよ。
 
例えば食事において嫌いなものがあると、「これ嫌い!」と食事の際に堂々と発言する子どもがいたとしましょう。
仮にその発言が許されてというか認められると、その子は、自分の欲をいとも簡単に通してしまう経験を1年に1000回も繰り返してしまうことになります。
青年期を迎えるまで10年が経過するとして、約10000回の経験はその子の人格にどの程度染み込むことでしょう。
 
もはや漢字を覚えることの比ではありません。
自分の気に入らないことがあると、何の配慮もなく、当然の権利かのように、傲慢に「○○嫌い!邪魔だからどけて。代えて。」と主張するといった人間への形成が自然になされてしまうのは火を見るより明らかです。
もしそうだとしたら、これはもう、不幸としか言いようがありません。
青年期を迎えて気がついた時には、すでにそういった対応が染みついてしまっています。
成功体験の蓄積が、失敗体験よりも効果が高いとちまたでは言われていますが、もしそうだとしたら、自分のわがままを押し通した成功体験10000回は、人を不幸に陥れるのに十分なパワーを持っていると思います。
一般の家庭内や教育を建前とする学校ならいざ知らず、普通の社会において、何の配慮もなくただ闇雲に自分の主張を押し通す人に対し、周りの人は冷ややかに対応し、対応されるならまだしも、そのうち誰ひとり振り向かなくなることは明白でしょう?
 
自分の子どもがそんな風になっているかも……と思っただけでゾッとしちゃいます。
 

 新しい時代に向けて必要なこと

最近の技術革新はすさまじい。
第3の産業革命という人もいます。
人工知能の分野では、東ロボくんという人工知能が大学受験の模試で偏差値57.8をたたき出しましたし、自動車の自動運転についてはカルロス=ゴーン(日産CEO)が2020年の実用化を目指していると発言しています。
さらに、未来学者トーマス=フレイが、2030年にはおおむね50%の職業が消滅していると発表しました。
文部科学省もそのような未来を見越して新しい学習指導要領の改訂に乗り出しました。
 
そんな未来に必要だとされている能力として、最近よく耳にするのがキー・コンピテンシーとか21世紀型スキルと呼ばれるものです。
かいつまんでいうと「創造的な思考を重視し、協働して行動し、最新技術を有効に利用し、世界に対応する」といったところでしょう。
個人的には、今も昔も必要な能力は変わらない気がしますが、それでも個々の技能、特にコンピューターや機械で代用できる技能については、その価値が著しく低下することは確かです。
さらに英語を話せるのは当たり前、コンピューターを取り扱えるのも当然となってくる中、人間ならではの能力として価値を持つのはやはり「創造」と「協働」であろうと思うのです。
 

 「協働」という概念

ともあれ、その「協働」という概念。
複数の人が同じ目的のために活動し、お互いを尊重し合い、価値観のズレが生じればそれをすりあわせる。
今さらだけど、技術革新が進む近い未来に改めて必要だと言われる能力です。
近い未来に必要とされ社会から問われる「協働」の能力。
 
これはどこで養われていくのでしょう。
そう考えた時、あらためて、先に述べたような食事の好き嫌いは、その育生に大きな影響をもたらすように思われます。
特に、心も体も脳も急激に成長する青年期に、その影響が、大きな影を落とすでしょう。
習慣化するほど繰り返した好き嫌いは、周囲に対する無配慮となり、もともと過剰な自己主張をする時期と相まって、獲得しなければならない「協働」という能力を得られないばかりか、人望まで失ってしまうのは、現実的によく見られる光景だと思いませんか。
青年期は少なからず他者とのあつれきを体感することになります。
これは決して悪いことではないと思うのです。
そもそも、そういったあつれきを生じる学校とかクラスとか部活とか、そういった環境が「協働」という能力を身につける訓練場となっていることを再認識すべきでしょう。
その経験を生かすことで、自分のあり方、他者への配慮、他者との距離の取り方、他者による自分の補い方、自分による他者への貢献……これらのものを理解し、その上で行動できるようになってくるのです。
 
その経験を、子どもたちには、できるならいい状況でさせてあげたい。
となると、食事の好き嫌いによって小さな頃から習慣化されたものは決してよい影響を与えないでしょう。
 

 食事の好き嫌いにどう対応するか

しかしながら、実際問題として食事の好き嫌いはありますよね。
食事において好き嫌いをさせない方がいい……ということは理解していても、食べられないものは食べられません。
無理矢理全部食べさせることも、今の子育てでは時代遅れの方法となっています。
 
正直、私もどうすればいいという確証はありません。
ありませんが、自分の好き嫌いを、主張をすることで押し通すといった成功体験はさせたくないと思うのです。
ですから、嫌いなもの、食べられないものに対して最大限の配慮を払うようにしていくのはどうでしょう。
作ってくれた人はもちろん、その食材や料理に対しても、申し訳ない気持ちを持つようにして残させる。
決して、食べ物ではないような扱いはさせない。
人間関係と同じだと思うのです。
嫌いだからといって、排除されるのが当然かのような言動は、やはり他者に対する態度としてはよろしくありません。
食事の好き嫌いを人間の好き嫌いだと思って、大人が対応しようとすれば、かける言葉も思い浮かぶのではないかと思います。
 
とは言っても、最近、自分の子どものために他人を悪く言ってはばからない親が増えてますけどね。
あれも、自分の子どもに、食事の好き嫌いと同様の成功体験を植え付けているということを自覚してほしいものです。

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コメント

  1. […] これについてはこちらのブログをお読みください。 […]