ビデオゲーム
私が子どものころは、コンシューマーゲーム機が全盛期でした。
マリオブラザースやドラクエなど懐かしい思い出です。
まぁ、個人的にはゲーム機そのものを手に入れたのがはやりに遅れて少し遅めだったので、時代に乗り遅れた感はありましたが……。
今では、スマートホンやPCのブラウザーでゲームをすることが当たり前の世の中になってきて、しかも表面上は無料ゲームがほとんどという、子どもたちが誕生日やクリスマスのプレゼントに一生懸命ゲームカセットをお願いしていたころから考えると、なんともうらやましい時代になりました。
ゲームの種類も多種多様になってきて、運動するものから、外を歩くものまで。
やはり、今も昔もゲームの影響力は強いと思います。
が、特に、時間を消費するという点においては、ゲームの性質や媒体から考えても、以前とは比べものにならないぐらい強化されているのではないかと思います。
ゲームの善悪の議論
私も、ゲームはする方なので、ゲームそのものを否定するつもりはありませんし、ゲームの持つ教育的示唆も捨ててはおけないものであると思っています。
ですが、やはり親としては、ゲームとの付き合い方に、煮え切らない思いがあるのが現実です。
むしろ、子どもと一緒に何の心配せずに朝からゲーム三昧の親も、今の世の中にはいっぱいいます。
また過剰なまでにゲームを完全否定して、もたせない、やらせないという方針を貫いている親もいるに違いありません。
ですが、それこそ善悪の議論を、ゲームという存在を対象にして行うことそのものに、私は個人的にあまり価値を見出しません。
善悪どちらにしても、子どもの人生において何らかの影響を与えることになるであろうと思いますし、後日その影響を実感して、親自身が後悔の念を持つことも容易に予想できます。
そもそも、どう判断してどう行動しても、後悔の念というのはくすぶるものです。
ゲーム制作会社が提供するゲーム世界
それはそれとして……。
私が今回考えたいのは、ゲームを子どもたちがどうとらえているかということなのです。
おそらく子どものほとんどは、ゲームというものを、プレイする主体という立場でしかとらえていないような気がします。
というか、それ以外でゲームというものを見る視点は、子どもたちにはないでしょう。
ゲーム制作会社や販売会社の意図も相まって、子どもたちは自分とゲームという2つの間の関係しか見れなくなってしまうのが普通なのです。
そうなると、「自分は勉強ができないけどゲームはうまいんだぜ」「ゲームの中なら自分は優秀でいられる」と誇らしげに思う、つまり自己肯定感を持ってしまうんですね。
いや私の実感だと、ほとんどの子どもが「自分はゲームを上手にできてる」と思っていますよね。
大人も、子どものゲームに対する対応力には、こっそり舌を巻いていて、その誇らしげな態度を助長する反応をしちゃったりするんです。
でも、少し考えてみてください。
ゲームってそんなに難しいものなのでしょうか?
そもそも、ゲームのほとんどが利益を目的に作られていると思うんです。
だから、ゲームの難易度の設定が、適度に困難があって、ちょっとしたことで――アイテムを取得するとか、敵を倒して経験値を得るとか……決して血のにじむような訓練の末、技能を身に着けるといったこととは異なることで――新たなステージに進み、そうして気が付かないうちに満足度が上がっていくようになっているはずなんです。
だって、そうでなければ売れないから……。
やはりゲームバランスが重要ですからね。
100人に1人しかクリアできない、先に進めないゲームは、ゲームとしてはダメダメで、ほぼ誰がやっても、腐らない程度の困難と必要以上の達成感による快楽を与えられるゲームが、少なくとも販売という観点においては優れたゲームなのでしょう。
ゲーム世界の持つ現実世界での意味
さて、そうなると子どもは、実はそんな誰もがちょっとしたことでクリアできるゲームに対して、達成感や満足感を得て、作られた優越感によってしまうのは明白です。
だから「ゲームなら……」という思いが、ゲームを作っている側によって作り出されたものあることを認識することなく、自己肯定感として膨らんでいってしまうのです。
私は、小学校高学年や中学生ぐらいなら、表面上の言葉だけでも、ゲームに作り手、売り手がいることをしっかりと伝える必要があると思います。
現実社会を生きる子どもたちは、ゲームのような作られた世界で生きるわけではありません。
実際、学習や部活、人間関係もそんなにうまくはいかないし、そこでの失敗は、人生の中で決して消えるものではありません。
むしろうまくいかないことのほうが多いでしょうし、だからこそ必要に迫られてなんらかの技能を習得しなければならなくなることでしょう。
だから、私は生徒にも自分の子どもにも、そのことをしっかりと伝えたいと思います。
「ゲームは作る側は、君たちに疑似的な達成感を得られる機会をゲームという媒体で売っているんだよ。」って。
実際には現実世界にもゲーマーという職業の人たちがいます。
それは決してゲームを楽しむ人たちえはありません。
どちらかといえば、スポーツです。
大会に勝つためにチームを作り、合宿をしたり、共同生活をしながらレギュラーと補欠を決め、必要がなくなれば戦力外通告が出されて、解雇される。
各種イベントに仕事として出かけて誰もが憧れるような行動を強制されて、しかも強さを誇示し続けなければならない。
こんなゲームの世界が現実ではあるんです。
子どもがやっているゲームのほとんどが、悦に入れる疑似体験の場だということを、子どもに伝えていかなければ、子どもが現実社会を生きることが将来つらくなってしまうのではないかと危惧するのでした。