玄関を開けたら
玄関に空腹の知人が訪問したら、私は助けるかなぁ。
ちなみにその人は、ギャンブル三昧で一文無しになっていることを私は知っているのです。
家に招き入れ、お風呂にも入ってもらい、食事を与えて……。
いやいや、そんなことしたら居座られちゃうし、たかられることすらあるかもしれない。
はい。イソップ童話の『アリとキリギリス』の話です。
イソップ寓話は、紀元前5世紀頃に書かれたといわれるヘロドトスの『歴史』によると、紀元前6世紀頃にアイソーボス(イソップ)が作ったとされる。もちろんアイソーボスが完全に創作したのではなく、以前からあった寓話や彼の出身地の民話、彼以後の寓話が混ざってできたもらしいです。
日本にイソップ寓話が入ってきたのは、安土桃山時代ぐらいのようで、江戸時代には『伊曽保物語』として日本語で出版されるようになったらしいです。
特に『ウサギとカメ』は日本の昔話のように庶民の間に広がり、今でも日本古来の昔話だと勘違いしてる人も多いぐらい馴染んでいますよね。
アリとキリギリスの結末
さて、その『アリとキリギリス』。
「ある夏の暑い日、アリが汗水垂らして働いていると、キリギリスはヴァイオリンを弾きながら歌っていました。冬になるとアリは食料を蓄えていましたが、歌ってばかりいたキリギリスは…。」
ざっと、こんな感じだったけど、結末はどうだったかなぁ……。
私の記憶は全くはっきりしていないんですよねぇ。
記憶の隅に残っているのは、「アリがキリギリスに食べ物を分けてあげました」という結末と「アリはキリギリスを見捨てました」という結末の2種類。
実はこの結末が違うという議論は、日本人論としては比較的よくされているようで……。
元のイソップ寓話の『アリとキリギリス』の場合、とはいってもキリギリスではなくセミだったようですが、「夏は歌っていたんだから、冬はおどってればいいじゃない」と言われそのまま放置されて餓死してしまうのだそうです。
それが、一般的にはポルトガルなどから伝わったこのお話を、日本人に受け入れられやすいように「アリがキリギリスに食べ物を分けてあげました」という結末に変化させてという説があります。
もしかしたらディズニーのアニメの影響もあるのかもしれません。
ディズニーのエンディングは、アリの家の中で楽しそうにキリギリスがバイオリンを弾いていましたよ。
どっちの結末が正しいか
私はここで、日本人がどうの、とか言うつもりはありません。
ここで気にしたいのは、「何が正しいのか」ということと教育や子育ては違うということなのです。
この寓話をつかって議論をしてみると、先ほどの結末と同様、おそらく
①キリギリスは働かなかったんだから自業自得だ
②アリはキリギリスを助けるべきだ
と二つの意見が出てくるはずです。
本来の結末とディズニーが提示する結末も、この二つの意見のどちらを採用するかということになります。
ここで我々がつい勘違いしてしまうのが、「どちらが正しいか」という議論をしてしまうところですね。
つまり、ことの善悪を議論するわけです。
でもこれって、議論になりうるんでしょうかね。
さらに、仮に議論になったとして、どちらが正しいかという判断ができるとは思えないんです。
ずーと昔から、歴史に名前が残る哲学者たちが、思考し議論し再構築してきた思想。
これでさえいまだに決着がつかない。
真理を求めているはずなのに、哲学者でさえ、時代や地域の影響を大きく受けているわけですから、我々のような凡人にこのような哲学的な議論を解決することなど……。
ただ、我々が凡人として理解できることは、
キリギリスには「遊んでばかりいるとあとで困ることになるよ」と言ってあげたほうがいいということ。
アリには「余裕があるなら、許してやって手を差し伸べましょう」と言ってあげたほうがいいということだと思うんです。
つまり、事の善悪の真理という高尚なものと、キリギリスがよりよく成長するために、もしくはアリがよりよく成長するために何を伝えてあげられるかということは別問題だということなんです。
最近の親がおかしがちなダメ対応
ところが最近、親が頭がよくなったからなのか、えせ哲学者が増えているんです。
例えば、A君が悪口でB君をののしったとします。
B君は我をわすれてA君に暴力をふるったとしましょう。
そうするとA君の親は「暴力をふるうなんて、社会に出たら犯罪者だ。厳しくB君を罰すべきだ。」と主張しますよね、たぶん。
するとB君の親は、「その前にA君がののしらなければ、うちの子はそんな風にしなかったはずだ。この子がそんな風になるなんて、よっぽどのことを言われたからだ。」と主張を返すわけです。
酷な言い方をしますが、お互いの親が自分の子どもの権利を守るために、この事件の善悪の真理がどこにあるのかを主張しているのです。
まるで、自分が哲学者か裁判官にでもなったように。
でも、その偉大なる哲学者は自分の子どもの権利を守るために他人の権利を害しているばかりか自分の子どもの将来に悪影響を与えているということに気づけないでいるのです。
それでも、A君の親は「暴力はよくないだろ!」と強固に言い放ちます。
それでも、B君の親は「人を逆上するまで追い込むなんて人間失格だ!」と強固に言い放ちます。
で、結果、B君が暴力をふるったので「悪」ということになれば、その場はいいかもしれませんが、きっとその後、自分は「善」だと勘違いの経験してしまったA君は、きっと人に対する暴言がひどくなることはあっても収まることはないでしょう。
しかも自分の親に「暴力をふるわれたんだ」と訴えればことは解決するんだと、繰り返しその方法を利用することでしょう。
そのたびに愚かな親は、再び善悪の議論に持ち込んで、決して子どもに対してプラスにならない勝利を勝ち取り、さらに負の連鎖は加速していくのです。
また、A君の暴言がことの発端として「悪」ということになれば、その場はいいかもしれませんが、きっとその後、自分は「善」だと勘違いの経験してしまったB君は、きっと理由があれば(自分で正当だとおもえば)暴力をふるってもいいのだと思い、暴力で解決することをやめないでしょう。
しかも自分の親に「逆上するような暴言を言われたんだ」と訴えればことは解決するんだと、繰り返しその方法を利用することでしょう。
そのたびに愚かな親は、再び善悪の議論に持ち込んで、決して子どもに対してプラスにならない勝利を勝ち取り、さらに負の連鎖は加速していくのです。
学校は擬似的社会としての学習の場
簡単なことじゃないですか?
A君には「人が嫌がることを言ってはいけない。」
B君には「暴力は絶対にいけない。」
とそれぞれの親が自分の子どもに言い聞かせて、自分の悪かったところを相手にわびる、それだけじゃないんですか?
我々は偉大な哲学者でもないし、哲学者と同じ使命を帯びているわけではありません。
我々は、自分の子の親で、別の子の親ではありません。
我々は、順番からいくと自分の子より早く死ぬのです。
ですから、我々がすることは子どもを守ることではなく、自分の力で守ることができる子どもにすることなんです。
だから学校のような教育機関、つまり、世間とはほど遠い擬似的社会が、学ぶ場としてあるんですよ。
そこを理解しないで、まるで本物の社会のように、親までが哲学者や裁判官のように対応したら、その親の子どもはきっと本物の社会で生きていくことが困難になっていくでしょうね。
まぁ、もっとも。
子どもは子どもで、親の手の届かないところでぐんぐん成長して、そんな親を軽蔑するか、上手に利用してやろうと思うかのどちらかでしょうけどね。
コメント
こんにちは。
眉間にシワを寄せながら拝読しております。
中学に二人子供がいる親としてとても考えさせられます。
私はダメ親なのか?ダメ親でもなんでも、どうすれば一人前の子供に育てることができるのか?現在、客観的に子供を見るほどの余裕はなく、目の前の事をとりあえず悩み続けてる気がします。
そうやって悩みながら親になっていくんだと、自分を肯定してる私がいます。
何も答えは出ませんが、思春期サナギのどろどろの子供たちが10年後、ヒラヒラと羽化していれば嬉しいです。
素敵な先生に出会った子供達は、ほんとに幸せ者だと思います。
コメントありがとうございます。記念すべき2番目です。感謝です。
ダメ親って、実はいないんじゃないかなぁと思います。残念ながら育児放棄や幼児虐待・中には子どもを殺害する親もいますが、それはレアケースです。ほとんどの、そう大部分の親が自分の子どものために行動しています。だからダメではありません。普通です。もっと言うと、人のために尽くしている人がダメだという社会はそれこそ終わりだと思いますよ。
悩める母さんが素晴らしいのは、悩んでいるという自覚があることです。子どもはその悩んでいる姿を絶対に覚えています。大人になったときに必ずその悩んでいた姿を思い出して語る日が来ます。それは明日かもしれないし、その子が親になったときかもしれません。いずれにせよ、必ず子どもは理解してくれます。
中学生ぐらいになると親を絶対的存在から相対的な存在、要するに1人の人間として受け止め始めます。その受け止め始めだから難しい時期なんでしょうね、親子関係が。だからお互いに新しい関係を構築するしかないと思います。そこにあるのは試行錯誤の連続です。忘れてはならないのは、それが母だけでなく、子どもの方もそういう状態だということです。それが本音混じりで、あきらめることなく、できるのはやはり親子ならではでしょう。
また、自分の子どもを見るのに客観的になるとありましたが、理想としてはよいとして、現実的にその必要はないと思います。むしろ、親として子どもを見ることを許されたのごくわずかの人間であるという自覚の方が大事でしょう。重要なのは母が母らしくあるための見方や行動か、それとも子どもの将来のための見方や行動かという判断を客観的に下そうとするかどうかだと思います。
サイトの関係上、耳の痛い話も(自分にとっても)多くなると思いますが、これに懲りずに是非読んでやってください。また、質問・相談のページから何か題材をいただければ記事をひとつ作ろうと思います。その際は利用してやってください。
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