【道徳】正しいという判断はどうあるべきか(中編)

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 哲学者が考える正しいという判断

トロッコ問題を扱った生徒たちに、私は3つの考え方を提示しました。
ひとつはベンサムの「最大多数の最大幸福」。
もうひとつはカントの「定言命法」。
そして最後に心理学から見るトロッコ問題についてです。
 
ベンサムは18世紀後半から19世紀初めに活躍したイギリスの哲学者です。
彼は功利主義という考え方を提示しました。
その功利主義を最もよく表している言葉が「最大多数の最大幸福」です。
極論すると幸福の量的な大きさによって善悪が決まるといった考え方です。
前編のトロッコ問題の場合、どちらの命題においても、1人よりも5人を助ける行動のほうが善とされます。
 
カントは18世紀のドイツの哲学者です。
哲学者としては哲学史上際立った存在です。
そのカントがいうところの「定言命法」ですが、カントの思想自体が難解であるとされていますし、もちろん私自身カントに精通しているわけではありませんから、すごく簡単に説明すると、善悪は無条件で人の理性に備わっているという考え方です。
つまり「理由は言えないけどなんとなくダメだと思う」といった理由で判断された内容が正しいとされるわけですね。
……一応、カントはすべての人が同じ理性を持っているのでそこで与えられる善悪の判断は同一であるはずなのですが。
しいて言えば、自分が誰かの生命や人生を奪うことはいけないことだという思いは共通しているかもしれません。
そういった意味で前編のトロッコ問題でいうと、5人は死んでしまうが自分がその1人を犠牲にすることはできないという判断の根本になっているかもしれません。
 
生徒たちには、こういった善悪の問題について、「ずーっと昔から、その世界の優秀な人々が考えてきているけど、答えはこれって決まっているわけではなさそうだ」ということさえ感じてくれれば、この段階ではいいと思っていましたし、今でもそう思っています。
 
「君たちが考えて、今している議論というのは、偉大な哲学者たちが通ってきた道と同じなんだよ」ってね。
 
私はさらに、付け加えて心理学も足を延ばすことができるということを知ってもらいたかったからです。
前編のトロッコ問題の【命題1】と【命題2】の差ともいえるかもしれませんが、心理学の立場からいうと、①行動の原理(行動したほうが罪を感じる)②意図の原理(わざとやったほうが罪を感じる)③接触の原理(触れたほうが罪を感じる)というものが働いているといえます。
こうやって考えると、罪の意識の量によって判断が行われることもありうるということですよね。
善悪の問題ではなく、自分の内面の罪の意識によって……です。
 
ここまでくると、何がどうなのか、私自身もよくわからなくなってきます。
でも、重要なのは世の中における判断には答えがない、もしくは証明できないもののほうが圧倒的に多いということです。
どうしても学校教育のなかの教科教育において欠落している面です。
本来ならば学校教育の集団の中で、また人間関係の中で、学習すべき内容なのでしょうが、きつい言い方をすると、親はもちろんのこと、先生までもがその意義を見失って答えを求めてしまう昨今、学校教育そのものに欠落しているのではないかと危惧してしまいます。
 
まぁ、いずれにせよ、生徒たちが答えが定まらない中で判断を下さなければならないのが現実世界であるという認識の入口ぐらいには立ってくれればいいと思います。
ここから、生徒たちは、現実社会の中の具体的な事例について、さらに考えを深めようとしていくわけですが、それは後編に……。
 

 日本に裁判官は何人いるか

いきなりですが、日本にはどれぐらいの裁判官がいると思いますか?
だいたい3700人ぐらいです。
最高裁判所長官から簡易裁判所まで、全国あわせて3700。
裁判が必要な案件の数はちょっと把握していませんが、さすがにそれでも少なすぎる気がします。
裁判員制度も行われていますが、裁判を迅速に進めるためのものではありませんしね。
 
いきなりなんの話だ?と思われるかもしれませんが、実は私、日本の風習というか伝統というか、日本人の性質というか、を考えるに、日本は総1億人裁判官国であると感じるわけです。
 
……あまり、かっこいいネーミングではありませんなぁ。
なんかいいネーミングを募集します。
 
話を元に戻します。
要するに、日本人は加害者・被害者以外の立場の人が、なぜだか裁判官になりたがる傾向が強いと思うのです。
逆かな。
加害者・被害者以外の立場であるから裁判官になってしまうともいった方がいいかもしれません。
しかも、その裁判官のほとんどが低品質。
情報収集をしない。
客観的な分析をしない。
多数意見や雰囲気にながされやすい。
自分で責任を感じていない。
もはや、低品質を通り越して悪質とまで言える気がします。
 
そして、その傾向はSNS(ソーシャルネットワークサービス)によって拍車がかかりました。
特に匿名性の高いツイッターなどはもう酷いものです。
しかも、当の発言している本人たちは、多くの場合自分が正義であると思って疑わないのです。
 
本物の裁判官であれば、おそらく自分の出した判決がそれに関わった人の人生を変えてしまうという罪の意識があるにちがいありません。
先に述べた心理学の①②③が働きますからね。
 
でも、偽物の裁判官では、やはりその意識は希薄になります。
中には「社会的制裁を」という言い方をする人さえいます。
要するに、裁判官は常に加害者であるという大前提を認識できずにいるのです。
ある意味、裁判官が3700人しかいないのは妥当なのかもしれません。
そもそも、そんな特殊な権限を持った人がもっとたくさんいたら、危険な国家になってしまうかもしれません。
 
意見を表明することは、もちろん構わないんです。
答えがないものに関して、自分なりの答えを表明するのは構わないんですが、その正当性を議論し始めるのがいけません。
さらに、その正当性を認めさせるのに、理論ではなく、声の大きさ(もしくは大きく聞こえる何か)が大きな影響力を持っているように思えてなりません。
残念なことです。
一部の年寄りが言う「わかぞうがぁ!!」なんて典型的ですよね。
今風に言うと「だまれこわっぱ!」なんかもそうです。
聞いている側も、そういうのに流されてしまう傾向が強いと思います、我が国、我が国民は。
小泉さんが首相のときもそんな感じだったと思いませんか。
 
しかも、今日ではSNSの発達で、共感を得るための手段、つまり孤独を感じないための手段として、同意するという行為をしがちになっていますから、その傾向はとどまることをしりません。
さらに、同意が同意を呼び大人数になっていくことで、それに拍車がかかり、いつの間にか自分たちが加害者になっていることすら気がついていこともざらにありますから、残念でなりません。
そんな状況になっていても、まだ相手が悪であるからという理由だけで、自分が善であると主張する輩は、おそらく増加する一方でしょう。
 
何の話をしているか、おわかりですか?
そんな大人が目の前に手本としていたら、果たして子どもたちはどういった行動をとっていくか。
今の子どもが悪いとか、社会が悪いとか、そんなことを言っているようでは、自分が善であると嫌でも認識したくなっちゃうじゃないですか。
私たちこそ、子どもの世界を変える前に自分の世界を変えて行かなければならないのでしょう。
これは自分自身を戒めて言っていることです。
共感して、自分で自分を変えてくれる大人が1人でも増えてくれたら、自分の息子が生きる世界は少しは明るくなるのかなって思います。

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