【道徳】正しいという判断はどうあるべきか(後編)

今後の励みのためにシェアをお願いします。

%e3%81%a8%e3%82%8a%e3%81%82%e3%81%88%e3%81%9aまずは前編中編をお読みください。

 ミニョネット号事件

ベンサムの功利主義とカントの定言命法を学習した生徒たちに、次は裁判官という立場で考察・意見交換をしてもらいました。
その題材となったのが19世紀に起こったイギリスのヨット、ミニョネット号の遭難事件です。
ものすごく簡単に説明します。
ミニョネット号が遭難します。
メンバーは船長・乗組員A・Bそして青年です。
遭難しているうちに青年は他の意見に従わず海水を飲み、瀕死になります。
そこで船長は彼を殺害して、彼の肉を食べることを決意します。
乗組員A・Bも彼の肉を食べて生きながらえます。
そして救助されるわけです。
実際の授業ではもう少し詳しく説明しましたが、ここでは省略します。
 
そこで、生徒には裁判員になってもらい、船長・A・Bの有罪無罪を話し合ってもらいます。
おおむね、
①全員有罪(人の肉を食べたことが罪)
②船長有罪、A・B無罪(殺人罪)
③全員無罪(仕方がない)
の3つに分かれました。
緊急避難的措置であるといっても、やはりカニバリズムに対する嫌悪感は全体にありました。
このあたりがカントの定言命法を実感できるところです。
 
生徒の多くは②の意見でした。
理由は「法律で裁くから」というものでした。
 
その後、トリアージ、つまり識別救急についても学習しました。
こちらは功利主義を地でいっている制度ですよね。
多くの命を救うために、効率よく治療をしていく、悪く言えば、助かる見込みのきわめて少ない人よりも急げば助かる可能性の高い人の治療を優先させるという制度です。
これはまさに功利主義です。
 
そして、生徒たちにはミニョネット号事件とトリアージを題材として最後のまとめをしました。
①正しいという判断は偉大な哲学者でも意見が異なる
中学生で正しい判断を下すことはとても難しいことだし、正しいという絶対的価値はないかもしれないということを理解してもらうようにしました。
逆にいうと正しさをひとつの価値観で導き出すのは大変危険であるということもわかってもらえたようでした。
まぁ、これが世界の混乱の大根源だと思うわけです。
功利主義も定言命法も、中学生であったとしても、「両方ともあるかも」と思える訳です。
そこが、正しいという判断をする上で大切だということです。
②法律(規則)は我々を守るためにある
ミニョネット号事件においても、生徒は法律というものをよりどころに自分の判断を組み立てていました。
トリアージについても同様です。
人として、死にそうな人の命を見捨てて、より多くの生命を救うなど、正常な人間ならわだかまりなくできようはずがありません。
そこに制度としてトリアージが存在すればこそ、気持ちを押し殺して、そういった行動に移れるわけです。
医者や看護士の行動が制度によって正しいと保証されているということです。
 
とかく、中学生ぐらいだと、規則やルールをうっとうしがったり、敵視したりします。
それは規則やルールが自分に制約を科す、つまり自分を苦しめるものであるという認識を持っているためです。
でも、そうではありません。
実はこの道徳の授業の、私なりの落としどころはここにありました。
 
そして、その法律を決めるのは我々自身であるという自覚を持つことも伝えました。
本来のマイケル・サンデル教授の授業は、この後、コミュニティー論による正しい価値へと話が進むのですが、ずみません。
アレンジさせてもらいました。
個人的意見を言わせてもらえれば、コミュニティー論って中学生には実感しづらいんですよね。
というわけで、3回に渡って中学校でおこなった道徳実践を紹介しました。
 

 長男の3針を縫うけが

私と長男・次男でゴルフの打ちっ放しにいきました。
そこで、長男がボールを用意している最中に、次男が打席からずれたところで素振りをしてしまい、長男の右まぶたを殴打。
3針を縫うけがをしました。
止血できましたし、長男の意識もしっかりしていたので、救急車は呼ばず、近くの救急病院に行きました。
 
偶然にも救急病院にはトリアージの張り紙がしてありました。
まぁ、偶然です。
 
親としてはとてもつらい。
何しろそのけがの原因は私が打ちっ放しにつれていったから。
しっかりと子どもの管理をしていなかったから。
なのです。
けがをさせた方にも、けがをした方にも、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 
でも、それでも、私が思う正しいことを彼らに伝えなければなりません。
ねじれるような思いを押し殺しながら彼らに伝えます。
長男には「声をかけて作業をしなければならない」
次男には「指定の場所、ルールをきっちりと守らなければならない」
 
長男は次男に対して恨み辛みの一言も言いません。
痛いともつらいとも言いませんでした。
次男は握り拳をつくりながら、長男が3針縫うのをその小さな涙目で凝視していました。
親としてはつらいことです。
自分のせいにしてほしい。
他人のせいにしたら、長男も次男も楽になるだろうに……。
親である自分も同様です。
外にあるものに責任を転嫁できたら、どれだけ楽だろう。
でも、その楽さは、私に、長男に、次男に、一時の安心感はもたらしたとしても、他に得られるものはなにもない。
 
数日後、三男が幼稚園で後頭部をロッカーにぶつけたという連絡がきました。
足を振り上げて遊んでいたら、軸足が宙に浮き、すっころんでロッカーの角にぶつけたそうです。
本人がしばらくして、「目がぐるぐるする」と先生に訴えて、大騒ぎになりました。
すぐに迎えに行きました。
迎えに行くと、三男は案外元気そうで、とりあえず病院にはいかず様子を見ることにしました。
幼稚園の先生たちは、丁寧に説明してくれたり、謝ったりしてくれました。
でもね、先生。
そう思ってくれることはありがたいし、そう思って指導してくれればそれで十分。
そんなに恐縮する必要はないです。
すっころんだのは本人ですから。
これで具合が悪くなったとしても、恨み辛みを先生たちに押しつけるつもりはありません。
たぶん。
押しつけたりしないようにする、絶対。
だって、先生たちの対応はおそらく正しいから。
 
正しさって結果をよりどころにしてはいけないと思うわけです。
結果は未来だけど、正しさは今だから。
子どもたちは、もちろん大人も正しい判断なんてできるわけありません。
自分の中で今できる最良の判断をするしかないんです。
三男に言いました。
「けがをしそうな所で、楽しくても危ないことはやってはいけない」
長男・次男・三男が無事だったから言えるのではなく、そうでなくとも(自信はありませんが)そういった彼らが直すべきところを伝えられる親でありたいと思っています。
決して他人のせいにすることで自分を慰めるような、そんな正しさを持たないように……。
まぁ、とても難しいことですけどね。
自信はまったくありませんが。

今後の励みのためにシェアをお願いします。

今後の励みのためにフォローをお願いします。

コメント

  1. 吉原隆夫 より:

    中に浮く→宙に浮く

  2. げんぽ より:

    ありがとうございます。早速・・・でもないな、ずいぶん経ってから直しました。