友だちの定義を誰がするか

今後の励みのためにシェアをお願いします。

%e5%8f%8b%e3%81%a0%e3%81%a1%e9%81%b8%e5%ae%9a

 LINEのお祭り

ご存じ、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)で人気をほこるLINE。
若者を中心に、社会への影響力は偉大です。
私ですら、「オリジナルスタンプつくっちゃおー」と思って鋭意製作中です。
「こんな時に使うスタンプがあればなあ」というアイデアを随時募集しています。
よろしくお願いします。
相変わらず話がそれます。
 
で、LINE。
若者の間では、色々な現象が起こっているようです。
 
特に興味を引くのはブロック祭りというもの。
私も44歳でLINEを始めたのでよくわからないから、すこし解説します。
LINEはネットワークで「友だち」を増やしていきます。
で、その「友だち」に文章を送るわけです。
文章を送られた「友だち」がそれを見ると、見たことが既読という文字で文章の発信者に通知されます。
つまり、その送った文章を「友だち」が読んだかどうかが送った人にわかるわけです。
となると、送られた相手は返事をしなければなりません。
なりません……というのが変な感じですが、「声かけてんのに無視すんじゃねぇよ!ボケ」と思われてしまうので、とりあえず返事を書きます。
読んだのに返事が返ってこないことを既読スルーと言います。
また、読みもしないで長い間放置されていることを未読スルーと言います。
この未読スルーは「読みもしないで……」という理解のされ方より「相手に届いていないんじゃないか」という理解をされます。
つまり、「自分が相手にブロックされているのでは」という疑念を持つということです。
ブロックとは「こいつうっとうしいから通知が来ないようにしよーっと」と設定することです。
 
で、ブロック祭りです。
これは「ブロック祭り始めます。返信が来ない人はブロックしちゃいます」と「友だち」に送り、半強制的に返信を求めるイベントのことをいいます。
……なんて高飛車な態度だろう……などと私は思ってしまうのですが。
要するに、自分がブロックされているのではないかという不安感と自分には「友だち」がいるという安心感を得るために行われるイベントということなんです。
私だったら、そんなことする奴、こっちからお断りですが……。
今の中高生はそうもいかないようですね。
 

 幼児教育の残骸

私の三男は現在、年少です。
幼稚園に通っていますが、改めてその様子を見て気づいたことがあります。
自分以外の他人、特に同じ年代の他人を無条件で「おともだち」と呼ぶことです。
幼児教育にとっては極めて重要な道具だと思います。
他者を自分との関わり以外で認識できない幼児にとって、この「おともだち」作戦は、概念を先に定義づけることによってさまざまな道徳教育を効果的に行うことができます。
 
幼児教育はそれでいいと思います。
ところが、小学校に入学し、さて、どこまでこの「おともだち」作戦を続けるのかというのが問題になります。
中学校に入学してもこの作戦を継続している大人がいるとしたら、それは大問題だと思うのです。
さすがに中学生ぐらいになると自己が確立しはじめ、それはすなわち自己と同等の価値をもつ他者の存在が確立するということでもあります。
自分と他者との差を認識するようになり、異なった価値観を受け入れることができるようになるんですね。
で、大きな問題というのが、「友だち」という概念が、異なった価値観を持つ他者の存在よりも先に刷り込まれているということなのです。
 
先ほどのブロック祭りも同様ですね。
LINEでつなっがっている人は、ほとんどが「知り合い」にもかかわらず「友だち」とカテゴライズされ、その結果、幼児教育で染みついた「おともだち」の概念が持ち込まれて、しかもそれが絶対的に正しい価値観かのように振りかざされるのです。
 
「友だち」なら「友だち」らしくしなければならない。
よって私の「友だち」はそう行動すべきだ。
それをしないのは悪だ。
 
ということに直結してしまうのです。
 
これは幼児教育が悪いのでもLINEの「友だち」という表記が悪いわけでもありません。
悪いのは私です。
私たち大人です。
「友だち」という概念に味をしめて、教育が楽になるという理由から繰り返し子どもたちに使用してきた私たちの責任です。
私見ですが、「昔よりもいじめが増えた」というは、実は「友だち」の概念のステレオタイプがもたらした影響なのではないかとすら思います。
そこから外れた個人の価値観は悪だということです。
だから、悪に対してとる行動は善なわけで、いじめている側に罪悪感が芽生えにくいのかもしれません。
 
少し話がそれましたが、今の「友だち」という概念先行現象が、今の中学生の人間関係を難しく、ストレスを感じるものにしているのではないでしょうか。
 

 友だちとは「作る」ものではなく「なる」ものだ

親が自分の子ども説明するときによく使われる言葉です。
「うちの子友だちを作るのが苦手で……」
この発言自体がもうすでによろしくありません。
ここには2つの悪が存在します。
 
ひとつは、他者を勝手に定義づけしているということです。
「お前は俺の奴隷だ」「お前は俺の友だちだ」「お前は俺の妻だ」などは、すべて同じ構造です。
「私」が「お前」を定義づけているのです。
「お前」の主体が持つ権利を無視して、横暴にね。
何様のつもり?という感じです。
でも、実際それをみんなやっている。
 
もうひとつの悪は、その定義づけが善であると無条件で思っているところです。
つまり、善であるという理由をもって他者に攻撃することもいとわなくなるという側面をはらんでいるのです。
ジャーナリストとか宗教者にもいますよね。
自分の信じる何かが善であると無条件で思うあまり、攻撃的になったり、手続きを無視した行動に出たり、相手への尊重など存在しないとばかりの対応をしたり……。
 
そんな大げさな……。
そうですね、大げさです。
でも、今の中学生を見て、思い当たるふしはありませんか?
今の中学生の発言を聞いていて、思い当たるふしはありませんか?
今の中学生がおりなす社会現象を見て、思い当たるふしはありませんか?
これらは本当に、今の中学生のオリジナルなんでしょうか?
 
私は彼らにこう伝えたい。
友だちとは「作る」ものではなくて「なる」ものなんだよって。
自分が他者の友だちになりたいと思えばなればいい。
裏切られて嫌になれば、やめればいい。
自分が他者に対して友だちであるという定義づけを自分にすればいいんです。
そこでつらいことがあったら、自分の定義づけが不十分だったと自分を変えていけばいい。
大人は、そんな自分で自分を変化させ続けようとする子どもたちのサポートができるように日々研鑽を積む必要があるのです。

今後の励みのためにシェアをお願いします。

今後の励みのためにフォローをお願いします。

コメント

  1. […] 小さいところで言うと、お友達という概念・・・これについてはこちら。 […]