処理の速さという価値観のもたらす弊害

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 学校によくある速さへの価値

人には色々な価値があります。
 
まぁ、そもそも色々な価値といっても、価値を有する側も色々で、価値を評価する側も色々な訳ですから、そりゃぁ色々すぎるぐらい色々でしょう。
時と場合によっても変わることを考えると、価値どうしを比較することそのものが、それほど大事なことではないような気がしてきます。
とはいっても、子育てや教育では、よりよいものを目指すべく一定の価値に光を当てざるをえません。
私個人としてはそれに決して否定的ではありません。
もし、一定の価値をもって教育に当たらなければ、学校教育はもちろん、個人の子育てすらも崩壊してしまうでしょう。
良し悪しは別として、これが正しいという信念をもって教育や子育てに当たっている訳ですから。
 
で、特に小学校で価値をもっているもののひとつが、処理の速さだと思うのです。
「いやいや、そればかりではない。」というのはごもっともですし、そんなことはわかっています。
しかし現実的に学校では、計算の速さ、掃除の速さ、給食の速さ、足の速さ、宿題の速さなど、いたるところに処理の速ささという価値が台頭しているのは確かです。
処理の速さというよりは、テキパキ感とでも言ったほうがしっくりきますかね。
いずれにせよそれらの速さに価値が設定されていて、子どもたちは知らず知らずのうちにその価値に傾倒していっているように感じます。
問題を早く解いて○をもらった人が優れていて、遅い人は……。
そんなことはない。
と大人側がわかっていても、果たして子どもはそれをわかっているかどうか……。
 

 壁にぶつかったときに真価が発揮される

これが中学生ぐらいになると、ちょっとした支障が出てき始めます。
そもそも処理の速さを競うということは、大前提が「できる」分野に限られているということを我々は見失ってはいけません。
つまり、処理内容が簡単であることが多いのです。
簡単だから処理の速さを争えるわけです。
クラスで全員できる問題ならば処理の速さが重要になってきますが、ほとんど全員が解けない問題ならば、価値は「できる(もしくは近づける)」か「できない」かになって、処理の速さは価値になりようがないわけです。
 
中学生、特に3年生ぐらいになると、学校で学習する内容が難しくなります。
特に数学は、ひとつの問題当たりの処理の段階が増えてきますから、その記録を残してミスを減らすという姿勢が必要になってきます。
ところが、みんな一生懸命に頭で処理をしようとするのです。
おそらく頭で処理する方が速いと思い込んでいるのでしょう。
特に、小学校のころに、何気なく算数のできた子どもたちほどその傾向が顕著です。
そして、そんな子どもたちには、何度言っても、それをやめようとはしません。
まるで50~60歳の、今までの成功体験を自分の生きる方針にしているような老人のように頑固になっています。
 
もあしかしたら、やめようとしないのではなく、どうやっていいのかわからないのかもしれません。
そりゃそうです。
今まで、どうやるのかという自覚もなくできてきたのですから。
学習をするという能力は、――そう、毎日毎日学校に通って身につけている能力というのは――、できなくなったときに力を発揮する能力でなければならないのではないですか?
簡単に解決できない、そんなときに使う能力ではないですか?
 

 自分の中における処理の速さという価値

だから私は思うのです。
処理の速さという価値観の自分の中の位置を下げようって。
ただただ速いからという理由だけで褒めるのは控えようと。
むしろ、困難に直面したときに、あーでもない、こーでもないと悩んで、試行錯誤していることをこそ、褒めてあげたい。
我が子には「そういう経験が一回りも二回りも君を大きくする。それでよし!」と言ってあげたい。
親だからこそ、子どもの気づけない価値観をみいだしてやっって、別の切り口から声をかけてあげたいと思いました。

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